今日の礼拝のメッセージは中村牧師による3本仕立てのメッセージでした。その3つとは「かけがえのない自分という存在」「表面だけでっ人を判断するおろかさ」「人の決め事のルールを超える祝福」です。それぞれ、対応する聖書箇所は創世記1:27、出エジプト記20:1-6、民数記6:24-26でした。
聖書は常に、人とは何か。何のために生きるか。を問いかけてくると同時にその答えを与えてくれます。生きて働く神の言葉である聖書が与えてくれる答えは、その御言葉が向けられた個人個人にカスタマイズされた答えになっています。また、聖書を開くタイミングによっても、与えられる答えはそのときにぴったりなものが与えられます。
創世記には人は神に似せて造られたとあります。この点が、人とそれ以外の被造物を分ける大きなポイントとなることが語られました。逆に言えば、人とは何かを突き詰めていくと、神様のある側面がうすらぼんやりと見えてくるということになりそうです。
そんな小難しい話はともかく、ひとつの生命を生きているという実感が持てるというのは、人の特権ではないでしょうか。なぜ、何のために造られたのかを疑問に思い、それを考え、そして答えが得られればそれを理解できるというのは人の特徴であろうと思うのです。そして、その過程において、ひとは自分以外の被造物にも目を留めることができます。
今日の中村牧師の説教のパート1では、2つのことを心に留めるように語られたと思います。ひとつは「自分を見てごらん、自分はたった一人しか世界にいないんだよ」ということ、そしてもう一つは「自分も、自分の隣人も、だれであっても、明日にはこの世にいないかもしれない」ということ。これらを心に留めつつ、自分の価値を噛み締めながら生きていければと思います。
人は自分のいやな部分は見たくない生き物です。このいやな部分と正面から向き合うときに、人は自戒の念を抱くことができます。いやな部分を見ないまま捨て去るのではなく、向き合うことが重要なのです。
生きていく上で、何かにたよらざるをえない場合、人は、自分自身のいやな部分を見ずに幻想の自分自身をたよるか、自分の外にたよれるものを探そうとします。安直にたよれるものを用意したくなるのです。けれども、どんな被造物も不変で絶対なものはないので、結局たよってもたよっても不安は解消されません。そのようなこの世の偶像ではなく、唯一絶対の不変な神様にこそ私たちはよりたのむべきです。神様によりたのむとき、私たちには祝福が与えられます。
聖書における祝福という言葉は、もともと「切り分けて聖別する」という意味の言葉です。そして、創世記に出てくるイサクがヤコブに与えた祝福の物語や、ヤコブがマナセとエフライムに与えた祝福の物語を見ても、一度与えられた祝福は取り消されることはありません。私たちの生活や行動には様々な不都合がありますが、そのような不都合さえも、神様はより大きな祝福を与えるために利用されるということが今日のメッセージでは語られたように思います。
さて、今日の愛餐会も豚汁やら鶏肉&煮卵やら、春巻きやら、シフォンケーキやらがあって、礼拝で心が満たされた後は、おなかと舌のほうも満たされました。しかし、食べるのに夢中で写真を撮るのを忘れてしまいました...



